個人間融資 戦国武将から学ぶ人材術(2)

今回の記事は「個人間融資 戦国武将から学ぶ人材術」です。
織田信長――明智光秀

「将軍を擁立すれば、天下の政事が仕切れますぞ」
 永禄10年(1567)8月、信長は自国である尾張につづいて美濃を統一する。

 この頃、信長は娘・五徳(徳姫)を三河を統一した徳川家康(1543~1616)の嫡子・信康のもとへ嫁がせ、愛妹・お市を北近江の若き当主・浅井長政(1545~73)のもとへ送り出している(諸説あり)。また美濃攻略戦の過程で甲斐の武田信玄(1521~73)と勢力圏が触れ合うや、養女(妹婿・遠山勘太郎の娘)を信玄の嫡子・勝頼に嫁がせて友好関係を結んでいた。

 信長は、“遠交近攻”の逆――“近交遠攻”――利害が一致する近隣諸国と手を結び、遠方の者を攻撃奪取する戦略を採用しつつ、上洛戦の大義名分とタイミングを探った。

 そして同年11月、信長は師父・沢彦宗恩(たくげん・そうおん、?~1587)の撰(せん)による、四文字のスローガンを掲げる。
「天下布武」

 やがて信長のもとには、全国各地から腕におぼえのある者、知略に通じる者など多くの人材が集結する。

 そのなかに、文武ともにずば抜けた才能を持つ“男”がいた。明智光秀(1516?~82)だ。

 しかも、このとき光秀は、2年前に三好三人衆や松永久秀によって弑逆(しぎゃく、目下の者が主君などを殺すこと)された、室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭とのパイプを持っていた。
「将軍を擁立すれば、天下の政事が仕切れますぞ」

 これは光秀でなくても、もちろん信長も含め、当時の戦国大名であれば誰もが思いついたことだ。現に畿内には三好三人衆や久秀が擁立した14代将軍・足利義栄(よしひで、1538~1568)がいる。が、彼らは将軍を擁しながら権力闘争に明け暮れ、天下の政事を動かせていなかった。

 そもそも発想や思いつき、アイデアといったものには何の価値もない。要はそれらをどう具現化し、現実の成果に結実させるかだ。
「ほう、おもしろい」

 信長は光秀の出現により、上洛戦の大義名分――15代将軍候補の足利義昭――を得る。そして彼は義昭を将軍に就けるべく迅速かつ果断に動いた。

 翌永禄11年(1568)7月、信長は美濃の立政寺で義昭を丁重に出迎え、2カ月後には義昭を奉じての入洛を成功させる。

次の記事に続きます。

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