個人間融資 戦国武将から学ぶ人材術(3)

今回の記事は「個人間融資 戦国武将から学ぶ人材術」です。
織田信長――明智光秀

「やっと培ってきた能力を活かせる」

 光秀の前半生は謎に包まれている。生年も出生地も諸説あり、確かなことは美濃出身で、若い頃に美濃を出て越前朝倉氏に仕えたらしいことくらいだ。実のところ、光秀が信長に仕えた時期は定かではない。

 ただ、光秀が歴史の表舞台に登場するのは永禄11年(1568)11月、信長の上洛以後だ。このとき光秀は京都で織田家と朝廷や幕府の間を往来しているから、信長上洛の直前に仕えたとみるのが妥当だろう。また近年では67歳没説が有力視されている。逆算すれば光秀は53歳で信長に仕えたことになる。

 いずれにせよ、光秀は尾張・美濃出身者を主体とする織田家にあって、京都の朝廷や幕府と交渉のできる人材だった。つまり、光秀は彼らと対等に渡り合うだけの知識と教養を持つインテリだ。

 おそらく、若くして美濃を出た光秀は、立身出世を夢見て“北陸の覇王”たる越前朝倉氏に仕えた。そして無名の10代~40代に文武の修行を積み、数多く現場を経験するなかで様々なスキルを身につけた。

 そんななか朝倉氏三代――貞景・孝景・義景――を補佐してきた一族の重鎮・朝倉宗滴(そうてき、教景)が陣没する。天文24年(1555)のことだ。以後、主君・義景は遊興にふけるようになり、天下統一はおろか越前一国の支配すら積極的に行おうとしなくなった。

 やがて光秀のもとにも、桶狭間の戦い(1560)で今川義元を討った尾張の織田信長の噂が聞こえてくる。戦国の武士は主君が無能で、その家がふるわなくなると、さっさと見限り別の家に移った。
「再仕官するなら織田家だ」

 そこへ流浪の将軍候補者・義昭がやってくる。光秀は再仕官の材料に、この人物を大いに利用しようと思いつき、信長に近づいたのではなかったか――。

 当初、光秀は義昭と信長に両属の家臣として仕えていたが、信長と義昭の対立のなかで義昭と決別し、信長の家臣となった。どうやら光秀は織田家にヘッドハンティングされたようだ。

 光秀は織田家を知れば知るほど信長に魅了される。なにしろ、この家では成果主義が貫かれていた。
「やっと培ってきた能力を活かせる」

 やがて、光秀は朝廷や幕府との交渉だけではなく、戦場で指揮を執らせても抜群の才を発揮する。

 信長の実力本位の人材抜擢のおかげで、光秀はわずか3年ののちに近江坂本城主(現・滋賀県大津市)となる。“一国一城の主”となったのは織田家譜代の家臣・柴田勝家(1522?~83)、丹羽長秀(1535~85)よりも早かった。その後、光秀は反対勢力が根強く残っていた丹波攻略の主将として戦線へ。天正8年(1580)には平定し、丹波一国を加増されて亀山(現・京都府亀岡市)城主となった。
「丹波国(における)日向守(光秀)の働き、天下の面目をほどこし候」

 信長は光秀の働きを褒めたたえ、家中第一の切れ者としてもてなしている。彼は光秀に坂本と亀山――京都東西の要衝の地を委ねるなど、その力量を高く評価していた。

 一方、光秀も自らの家臣団に対して「家中軍法」のなかで、主君への感謝の念を語っている。
「すべては、信長さまのおかげである」

 光秀が“本能寺の変”に及んだのは、それからわずか1年後のこと。両者の間に何があったかは謎だ。

今回の記事はこれで終了となります。

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