本日は横井庄一さんがグアム島で発見された日です。

グアム島といえば、横井庄一を真っ先に思い浮かべる人は多いだろう。「恥ずかしながら生き長らえて、帰って参りました」
 これが、有名な帰国第一声である。横井さんが保護されたのは、1972年(昭和47年)1月24日である。28年間もの長期間、密林での潜伏生活を送っていた横井さん。なぜ、彼はグアム島の密林に潜伏しなければならなかったのだろうか?

横井庄一は、1915(大正4年)愛知県海部郡で生まれている。昭和16年に2度目の招集を受け、昭和19年戦死の公報が母つるのもとに届いた。
 2度目の召集では満州に送られ、1944年2月部隊は釜山から安芸丸にすし詰めにされて、南を目指した。3月4日に、輸送船はグアムに到着している。グアム島には2ヶ月ほどの間に、2万を越える兵隊が島に配置された。

横井の部隊は、アメリカ軍が上陸するアガット(昭和町)を中心に陣地を作っていた。7月10日に、横井は初めてアメリカ艦艇を有羽(アリファン)山から眺めている。米軍が上陸した7月21日の様子も、横井は目撃している。
 横井は、輜重(しちょう)兵である。つまり、物資の運搬業務がその中心である。したがって、持たされた小銃弾も30発足らずであった。

横井のいた歩兵第38連隊は、7月21日に大規模な夜襲攻撃をかけたが、その後は連絡も途絶えジャングルの中で孤立していった。従って、7月5日に日本軍の総反撃が開始されたことも、8月11日に全島が米軍に落ちたということも、横井は知らずにいた。

島の奥深くにある「フェンナの海軍洞窟」には、3年分の食糧が蓄えられていたが、いち早くアメリカはそれを知り、横井たちは近づく事も出来なくなった。 すでに本土では、「玉砕島・全員戦死」と報道されていたが、グアム島には死にものぐるいの2千名の兵士達が残っていたのである。「ポツダム宣言」を空からまかれた日本語新聞で知った時も、頭から「敵の謀略」と決め込み、「ポツダムとは、なんだろう?」と話し合っていた。
 横井達は、何度も投降勧告の放送を聞いているが、いくら日本の流行歌などをマイクで唄われても、到底信じることはできなかった。こうして、ひたすら潜伏し飢餓と病に苦しむ横井の28年間の闘いが、戦争終決と同時に始まった。

最初の7年間、横井は生き残った仲間とランチョと呼ぶ掘建て小屋の隠れ家を転々といていた。タロホホ川の上流である。しかし、米軍の襲撃が繰り返えされ、地下に潜るしかないと追いつめられ、穴掘りを始めた。

条件は、近くに食糧がなくても水とマキには不自由しないこと、そしてなにより人が通らぬことであった。砲弾の破片を木の先に縛り付けて、それをシャベルにして掘る。
 合計7つの穴を掘り、最後に過ごした穴は、竹藪の中に深さ2メートル、奥行き3メートルの穴であった。主食は、パンの実を中心とした木の実であったがなかなか手に入らない。タンパク質は、野ブタ・ネズミ・トカゲ・牛・鹿などからとった。

ネズミは、調理できない時は生で食べることもあったが、焼くと簡単に皮がむけ天日で乾燥させて保存食にも便利であった。山猫を、食べたこともあった。猫は肉が少なく、猫が寒がりなのが理解できたという。
 蛇は少なく、毒蛙から慎重に毒を抜いて食べることが多かった。川のエビは、殻をむいて生で食べたが、大変な美味だったという。川のウナギも、竹で作ったカゴでとった。

タロホホ村が近くに住居があったが、村人の食糧には決して手を出さなかった。これが、長期間発見されなかったポイントになる。
 火を起こすレンズを失った後は、細工した竹をこすりあわせて火をおこし、火種を慎重に灰に保存していた。コプラ椰子から油をとり(ココナッツオイル)、天ぷらを揚げることに使ったり、灯油に使ったりしている。

衣類は、元洋服の仕立屋だった本領を発揮した。木の皮をはいでアク抜きして繊維を作り、手製の機織り機まで作って布にした。その後縫い上げて、半年がかりで完成させるという本格的なものであった。

昭和38年ころに大きな台風に襲われ、本格的な食糧不足に陥っている。この時の台風で、生き残り兵の多くが命を失った事が想像できる。昭和40年ころに、生活を一緒にする事もあった2人の戦友志知と中畠が死亡している。ここから、完全な孤独の生活となる。その後1人の日本兵とも、そしてその痕跡にも会っていない。年月は満月を数え木の幹に記していたが、発見された時は6ヶ月ずれていた。
 帰国後披露された道具類も、人々をうならせる見事さであった。しかし、採ればすぐ腐る食糧は常に不足し、猟をした痕跡も常に消さなくてはならなかった。調理のために火をおこすのも、人目につかない真夜中に穴の中で行うため耐えられない暑さと息苦しさであった。

内臓を壊し、胃潰瘍などで何度も生死をさまよう。なにより、発見されるという恐怖感で、28年間一瞬たりとも熟睡したことがなく、独り言も自分に禁じたという。想像を絶する、過酷な生活であった。

マラリア蚊・毒蛇・毒虫が居ないことは、生き残るためには幸いした。蛇は全くいないというわけではない。横井は幾度か会っている。

1972年(昭和47年)1月24日。陸軍伍長横井庄一がグアム島へ上陸してから、28年目のことであった。
 その日の夕方、彼はいつものように川に魚採りカゴを仕掛けるために、洞穴を出た。足跡を残さないように川の中を歩き、草原の近道をつっきる。ふと草むらを出たとたん、目の前に銃をかまえた現地人が立ちふさがっていた。無我夢中で飛びつき銃をひったくろうとするが、すぐに押し倒されてしまう。連行される間中、横井の脳裏をかけめぐるのは、「ついに殺される時が、やってきた」という気持ちだけであった。

日本国内では、グアム島のジャングルに潜伏していた日本兵のニュースは大きな衝撃をもって迎えられた。日本はまさに、高度経済成長期のただ中。
 戦争を忘れ、あまりにも安穏と暮らす日本人。発見されてから9日後の2月2日に、羽田空港のタラップを降り、あれほど帰りたかった日本の地を踏みしめた時、第一声に出たことばが「恥ずかしながら生き長らえて帰って参りました」であった。
 そのことばを聞き、紛れもなく「日本敗残兵」である姿をまのあたりにし、誰もが戦争はまだ終わっていなかったという事を思い知ったのである。

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